B.B.キングA〜3年ぶりのシカゴ


2007年4月6日午前10時、
私と叔母はシカゴのオヘア国際空港に降り立った。
シカゴを訪れるのはこれで3回目だが、
もう何回も来ているような感覚に襲われる。
ブルースに目覚めた20歳の時から、
「シカゴ」という3文字が目の前にちらつくようになり、
いつか必ず行こうと心に決めていた。
その夢が叶ったのは、それから4年後のことである。
それもバンドでお世話になったNさんのお父様と偶然フライトが一緒になり、
キャプテンとしてお父様が操縦するJL010で初めてシカゴ入りしたのだ。
ちょうどシカゴは6月で新緑が美しい季節だった。
Nさんのお父様からお誘いを受け、
私と先輩はジャズが流れる素敵なお店で
おいしいお食事をご馳走していただいた。
そしてその夜、マジック・スリムのライヴを見に行ったのである。
願わくば、マディ・ウォーターズの黄金期だった
1950年代のシカゴに足を運んでみたかった。

1940年代の終わり頃、
ミシシッピー州クラークスデイルからやってきたマディ・ウォーターズが
シカゴでエレクトリック・バンドを結成して、チェスで録音。
そのレコードが大当たりしたことから、
シカゴ・ブルースは全世界へと広まっていった。
「俺は大物だ。」と自ら言ってはばからないマディの強烈な男気は
そのままシカゴ・ブルースのカラーとなっていく。
その男を蔭で支えたのがバック・ベーシストのウィリー・ディクソンだ。
彼の並外れた音楽センスと卓越した指導力があったからこそ
マディは成功を収めることができたと言っても過言ではない。

そして特筆すべき点は、
マディ・バンドのメンバーだったオーティス・スパンやリトル・ウォルター、
ジュニア・ウェルズ、バディ・ガイ、ジェームス・コットン、ジミー・ロジャースは、
ソロになった後もブルース界の重鎮として名をとどめたことである。
それはボスであるマディの配慮が行き届いていた結果でもあった。
マディは彼らの優れた才能を伸ばすため、
自分がギターを手にしている時でさえ、
バックのギタリストやハーピストに長いソロをとらせるよう仕向けたのである。
私としては、
マディのライヴ映像を観る度に、あの凄みのきいたマッチョなスライド・ギターを
とことん聴いてみたいという欲求にいつもかられるのであったが・・・。

他にもシカゴで名を馳せたブルースマンはたくさんいる。
ビッグ・ビル・ブルンジー、ハウリン・ウルフ、ヒューバート・サムリン、
オーティス・ラッシュ、マジック・サム、J.B.ハットー、
ルーサー・アリスン、ルイス・マイヤーズ、マジック・スリムなど
みんな私の大好きなアーティストばかりである。
今年の7月に来日したブルースの女王、ココ・テイラーも
ウィリー・ディクソンに見出され、60年代のシカゴで多くの曲を録音した。

ブルースに焦がれていなかったら、
これほどまでにシカゴに行きたいとは思わなかったかもしれない。
癒しの地、ハワイに行くことだけを考えていただろう。
でも今では、
伝説のブルースマンたちが生まれ育った故郷、ミシシッピー州に
いつか行きたいと思っている。


シカゴに行くのが初めてという叔母のために、
正午にパーマー・ハウス・ヒルトン近くのバス停から出発する観光バスツアー
「グランド・ツアー・オブ・シカゴ」に参加する予定でいたが、
チェック・イン・バゲッジを受け取り、
ダウンタウン行きのシャトル・バスに乗った時、
時刻はまもなく11時になろうとしていた。
今回はハウス・オブ・ブルース・ホテルに泊まる為、
3年前のように宿泊するホテルの前までバスは来てくれない。
「道が渋滞していたら間に合わないかもしれないな・・・」
そう思いながら、私は窓の外に広がる景色をぼんやりと眺めた。

「どこから来たの?」「観光が目的?」と
こちらのドライバーは気軽に声をかけてくる。
海外在住歴15年の叔母がほとんどの質問に答えてくれたので
私は相槌を打つだけで済んだ。
でも叔母は、
「今晩はB.B.キングのライヴを見に行くのよ」とか
「姪は彼の大ファンなの。そのためにわざわざシカゴに来たのよ」
などと、私だったら躊躇して話さないような事を話題にしていたので
それには少々閉口した。
もちろん運転手さんは大喜びで叔母の話に耳を傾けていた。

時計を気にしながら乗ること40分。
ようやくハウス・オブ・ブルース・ホテルに着き、
その隣りにドンと建つライヴ・ハウスを横目で見ながら
重たいスーツケースを引っ張って小走りでエレベーターに乗り込んだ。
フロントは4階にあったが、扉が開いた途端、
目の前に置かれたデスクを見て拍子抜けした。
「えっ? ここがフロント?」と疑いたくなるほど
受付のしつらえが簡素だった。

でもフロントの男性が笑顔で迎えてくれ、
とても親切に応対してくれたので、
長旅の疲れも吹っ飛んだ。
チェック・インを済ませ、
12時ちょうどのツアーに参加したい旨を彼に告げたら、
隣りのデスクへどうぞと案内された。
すでにカップルが予約担当の女性と話していたので、
私たちは彼らの後ろに並んで、
話が終わるのを一日千秋の思いで待った。

急いでいる時は、たった5分でも15分ぐらいに感じる。
叔母が
「もうツアーは無理じゃない?私は別にいいわよ」と言ったが、
私はなぜか強気の発言をした。
「でもあのツアー、すごくよかったわよ。
ダウンタウンからサウスの方まで回ってくれるし、
ミシガン湖のほとりではバスから降りて、記念撮影もできるの。
ねぇ、ダメもとで行ってみない?」

私はどちらかと言えば、ハラハラドキドキしながらも、
ギリギリのところで達成感を味わうのが好きなタイプである。
よって、今回のバス・ツアーはいちかばちかの賭けだったが、
「きっと乗れるにちがいない」という思いもどこかにあったので
私はそれに賭けてみることにした。

「あの・・・まだでしょうか?」
という言葉をグッとこらえて待つこと10分。
デスクの女性と目が合った瞬間、叔母も私も一斉に口を開いた。
「12時ちょうどにツアーのバスがパーマー・ハウス・ヒルトンの前に来ます。
今は11時45分。間に合うでしょうか???」
女性はすぐさま自分の腕時計を見て、眼を丸くしながら
「早く行きなさい!1階の出入り口にタクシーが待っているわ!
間に合うかわからないけど、5分ぐらいで着くでしょう。」
そう答えた。

私たちは「わかりました!ありがとうございます」と言いながら
エレベーターに飛び乗り、出口で待機していたベル・ボーイに
「今すぐタクシーに乗りたいんです」とリクエストしたら
目の前にいたタクシーのドアがスッと開いた。
運転手さんに「お願い。早くパーマー・ハウス・ヒルトンに行ってください。
12時にツアーのバスが来るんです。」と慌てふためきながら告げると、
彼はコクリと頷いてアクセルを踏んだ。

私は、動き出した車の中でホッと一息つきながら叔母に話しかけた。
「そういえば、スーツケースを二つ、
何も言わずフロントの前に置いてきちゃったけど、大丈夫だよね・・・」
叔母は「大丈夫でしょ?名前も書いてあるし・・・」
と何とも不安気な表情で答えたが
「間に合うかどうか」の方が先決だったので
私は荷物のことを忘れて、「プリース、プリース、プリーズ」と
JBの歌のように小声で運転手さんにお願いし続けた。

そうしたらすぐに彼が話しかけてきた。
「日本からですか?日本語を3つ知っています。
"こんにちは" "ありがとう" そして"弁護士"です。
私は苦笑いしながら「弁護士ですか?」と聞き返した。
そんな会話をしながらも私の目は時計を睨んでいた。
すると、見覚えのある通りに出てきたので、
「大丈夫にちがいない」という確信が湧いてきて
いつドアが開いてもいいよう体勢を整えた。

チップをはずんで渡したら、彼は愛想良く別れの言葉を言った。
その時、時刻は11時58分。
急いでホテルの中にあるツアーの予約センターに駆け込もうとしたら、
団体さんが出てきたので
先頭にいたエージェント関係と思われる女性に対して
「すみません・・・
私たちは12時ちょうどのバス・ツアーに参加したいのですが・・・」
と切羽詰まった顔で話しかけたら
「あっ、今これからバス停に行くところです。
お金はそこで払ってもらいますから一緒についてきて下さい」
と言われたので、
わたしたちは顔を見合わせながら
「よかったね〜!急いで来た甲斐があったね。間に合ったよ!」
と満面の笑みを浮かべて喜び合った。

ところが12時10分になってもバスが来ない。
あまりにも風が強く寒かったので、
バス停の前に建つビルのロビーに入るようその女性から指示を受けた。
「な〜んだ。こんなに遅れるんだったら
あんなにドギマギすることなかったね。」
そう言いながら
私たちは併設のコンビニでミネラル・ウォーターを買った。
ガラス越しに外の様子を見ていたらようやくバスが到着し、
我々を乗せたバスは30分遅れで出発したのである。

後になって考えれば、このバスに乗ったことが
奇跡ともいえる再会の始まりだったように思う。
あの時、ツアーに参加するのを諦めてホテルの部屋でぬくぬくとしていたら、
BBの優しい手の温もりを再び感じることなど到底できなかっただろう。
「直感に従って行動してよかった。これは神様の計らいだったのだ」
今では心からそう思っている。


<07・8・18>







成田からシカゴへ





















オヘア国際空港





















チェス・レコード跡地





















チャイナ・タウン





















ミシガン湖沿いに建つシカゴの摩天楼